コロナ禍の3年の間、海外に渡航することが困難であったため、国内の旅行に何回か出かけました。特に2022年の8月からは仕事を定年退職したこともあり、時間の融通ができるようになったことが大きく、これまで出かけることが困難であった1週間とかそれ以上の旅も可能となったのはありがたいことでした。
国内の旅をする中で改めて痛感したのは、神社とお寺の数の多さです。聞くところによると、お寺などは檀家も減って後継者問題に悩んでいるところも少なくないようですが、それにしても多い。これについてはやはりきちんと頭の整理をしておく必要があるなと感じました。
ちなみに、「日本人は無宗教」という言い方がされることが結構あると思いますが、個人的にはこれは全然間違っていると思っています。誰が何の目的でこういう言い方をしているのかわかりませんが、その言い方があたかも正しいように受け止めるのはおかしい。あえて言えば、義務教育の内容には宗教的な議論がほとんど無いため、多くの日本人が宗教について考えるという機会が無かったということはあるかもしれません。一方で、クリスマスに代表される各宗教のイベントだけはお祭り的に盛り上がるという現象を見て違和感を感じる外国人や一定数の日本人がいるのでしょう。
しかし、日本全国にこれだけ神社やお寺が存在しているという歴史的な事実を見ると、これはやはりその意味について、心静かに考える必要があるなと感じるのです。それがある意味、コロナ禍の期間の国内の旅を通じて実感し、これからの宿題としてとらえたことの一つでした。
先日、東北旅行をした際に、五所川原の「立佞武多の館」を訪ねました。そこで見た紹介ビデオの中で、「立佞武多のお祭りをやることで、五所川原の町の人たちが明日からの生活を頑張ろうと元気になれる」という趣旨のコメントをしていた地元の人の言葉が心に残りました。私のような観光客は、珍しい勇壮なお祭りを観光として見るだけですが、そこに住んで祭りに参加する人たちは、日々の生活から時間とコストを投じてイベントに関わることで「元気になる」「明日からまた生きていく力をもらう」ことができる。ああ、お祭りというのは観光資源などでは全くなくて、元来そういうものなんだなと膝をうった次第です。
日本全国にある神社やお寺も、観光地として眺めるだけでなく、そこに住んでいた人たちの生活に思いを馳せることが大事なんだなと改めて感じ、一つの宿題として私の頭に残っています。
立佞武多の館に展示されている3体のうちの一つ。毎年1体が新しく製作されて3年で一巡するとのこと。その威容に圧倒されます。
お寺の話に戻りますが、昨年2週間ほど京都に滞在して数多くのお寺を巡りました。基本的に各お寺にはお墓が併設されているのですが、それを見ていると「亡くなった父母や兄弟、祖先を思う」場としての役割がお墓にはあるなとふと感じました。「葬式仏教」という言われ方が時々されるのですが、本来、お墓という場を守るというのがお寺の大事な役割なのかなと思い至った次第です。その地で生きる人々が毎日の生活の中で祖先に思いを馳せる場としての墓地を提供するというのが、それはそれで地に足がついたお寺の存在意義なのかもしれません。
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2023年6月、マレーシア東海岸のKuala Trengannu という街に来ています。ここでいくつか有名なモスクを訪問し、クリスタルモスクでは中を案内してもらいイスラム教に関し簡単な説明を聞きました。「日本の神社とお寺」という記事以前書きましたが、イスラム教のモスクを訪ねてみるとこれはまた別の世界だなと感じました。信仰と宗教の問題は簡単には論じられませんね。これからも、いろいろな物を見聞きしながら考えていきたいと思います。(2023.6.2)
(続く)